ゴヨウケンハナニ

私はとてもハキハキしている明るい子供だったが、ある日のちょっとしたことをきっかけにまるっきり変わってしまった。
その、自分の中で「調子が狂った」日のことを今でも覚えている。

小学校2年生の冬だったと思う。同じ絵画教室に通っているMちゃんから自宅に電話がかかってきた。
私は別の習い事で家にいなかったので、帰ってきてから母に折返し電話をするように言われた。

母「Mちゃんから電話がかかってきたから、折返し電話をかけてあげてね。ちゃんと要件を聞いてね。」
私「はーい!」

(電話をかける)
M「はい、X山です。」
私「もしもし、Mちゃん?」
M「あ、ひぃちゃん?」
私「永子だよ。」
M「あのさ、ウチ、先週教室休んじゃったじゃん。宿題出てた?」
私「出てないよ。」
M「そっかー。ありがとう!」
私「うん。じゃあね!」
(電話を切る)

母「ちゃんと要件を聞いたの?」
私「(ヨウケン...?)絵の教室の宿題があるの?って聞かれたんだよ。」
母「要件を聞いたのか?って聞いてるの!」
私「...」
母「じゃあ『ごようけんはなに?』って聞いたの?」
私「聞いてないよ。」
母「何のために電話したのよ!?ちゃんと要件を聞き直しなさい!」

(再び電話をかける)
M「はい、X山です。」
私「...Mちゃん?」
M「あれ、ひぃちゃん?どうしたの?」
私「...ゴヨウケンハナニ」
M「え?」
私「えっと、ゴヨウケンハナニ」
M「どういうこと?」
私「Mちゃんごめんね。なんでもないの。」
M「うん...?そっか。じゃあね。」
(電話を切る)

母「ちゃんと聞けたの?」
私「『ゴヨウケンハナニ』って聞いたけど、分からなかった。」
母「じゃあ聞けてないじゃない!?なんなの!?電話代を無駄にしないで!!」

今思えば私が「絵の教室の宿題があるの?って聞かれた」と答えている時点で母は電話の要件を理解していたはず。
執拗に"要件"を確認する必要はなかった。単純に、母は虫の居所が悪かったのかもしれない。
後になって思い返せば、母は機嫌が悪いと怒る理由を探して怒るような人だったが、そんなことは子供の私には分からないのである。
そして、子供にとって親や教師は絶対的存在である故に、追い詰められる時のダメージは大きい。
私はとても親に従順だった。今となっては単純に萎縮していただけのようにも思う、が。
だからこそ、親に責められたら自分を責めてしまう。

傍から見れば小さな出来事だが、あの日から自分への自信をすっかり失い、大人になってやっと「気にしなくてよかったのに」と思えるようになった。
時が経てばある程度のことは解決するが、あの出来事がなければあの頃、あの大事な時期にもっとのびのびと過ごせていたのだろうと思うと、悔しい気持ちにもなる。

つい先日、子供が道路に飛び出した時に「危ない」と言ってはいけないというような話を聞いた。
というのも、子供は抽象的な言葉を理解できないのだという。
まさにこれだと思った。私は「要件を聞け」と言われても分からなかったが、「『ゴヨウケンハナニ』と聞く」ことはできた。

「相手が分かる言葉で伝える」ということを、大切にしていこう。